これは、ここしばらくぼくの頭のなかでめぐっていたことを、書き起こしたものである。
だから、たいした意味もないし、結論もない。
論理は破綻しているし、要するに単なる僻みや愚痴でしかない。
そして、今のぼくには、他人の幸福を祝うような余裕はないし、
また、いろんな意見について議論するような気分にもなれない。
それでも、ここに書いておこうと思ったのは、
ぼく自身が、今こんな感情を持っているということを、忘れないでおきたいから。
ここにあることは、ぼくの原点のひとつだと思うし、
もしかしたら、再起のきっかけになるかもしれない。
また、だれかに聞いてもらいたいと思ったから。
自分の中で抱えておくことが困難だから、穴の中に叫ぶ。
どうせ穴の中に叫ぶのなら、だれかに聞いてもらったほうが、すっきりすると思う。
なので、ここから先は、長くなるし、面白くもない。
時間のない方は、読み飛ばしてください。
それから。
有形無形に、ぼくを応援してくださったみなさま、本当にありがとうございました。
みなさまの言葉のひとつひとつは、ぼくを助けてくれました。
期待に沿えず、本当に申し訳ないと思っています。
しかし、それも含めて、ぼくなのであって、ひとまず、ぼくはぼくとしてやっていくつもりです。
今後いつの日かお会いすることもあるかと思います、そのときは、また仲良くしてやってください。
10.30
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このあたりで、これまでのまとめをしようと思う。
「とりあえず」来年4月から地元で働くことになった。
思い描いていたものとは異なる「結論」である。
しかし、ぼくを取り巻くいろいろな事情を考えると、
いまは受け入れざるを得ない。
この就職難の時代に、ぼくを採用してくれたのであるから、
本来は、感謝をしなければならない。
それにもかかわらず、マイナスの表現をしてしまうのは、
やっぱりぼくのなかであきらめきれないものがあるからだ。
ぼくは、出会った一人一人を幸せにすることで、
世界中の幸せの総量を増やしたい、そんな仕事をしたいと思った。
世の中には、仕方ないのかもしれないけれど、やっぱりどこか変だと感じる
そんな理不尽があふれていると感じた。
それを仕組みとして是正するのは、ひどく困難であるだろうけれど、
対面する不幸を減らすことで、一歩ずつ改善できるのではないか、
そんなことを考えたことがある。
それを実現する人間になりたいと思った。
また、あるとき、
ぼくは、「地位」がほしいと思った。
人は誰でも、自分の考えを外部に表明する自由を持っている。
だけど、それを行使できるかといえば、それはまた別の話だ。
それも、より効果的に行使できるかという点からすれば、もっと困難がつきまとう。
ただ駅前にたって、大声で叫んだとしても、誰も聞いてはくれないだろう。
話を聞いてもらうためには、それ相応の「地位」が必要なのではないか、と思った。
そして、
ぼくは、恵まれた環境に育った。
それは、経済的な面でも、人間的なつながりにおいても恵まれていたと思う。
両親は、ぼくに高度な教育を受けることを許してくれたし、
僕自身、それを手にする機会を得た。
高い理想を描き、自分なりの考え方をもって、行動する友人や恩師にも恵まれた。
彼らと、決して実践的ではない議論を、ただ議論のためにすることも許された。
ぼくの周りには、このような機会を得ることができなかった人が、
少なからずいたということを、僕は知っている。
誰しもが機会を与えられているようで、実はそうではない。
ぼくは、そのことを知っている。
だから、ぼくは、挑戦した。
自分で言うのは変だけれど、それはもう全身全霊をもって、挑戦したのである。
しかし、「成果」は得られなかった。
現実というものは、そういうものである、と人はいう。
そして、決意熱意が本物であれば、またチャンスがめぐってくる、という。
しかし、ぼくは思う。
体よく試験に合格したか否かで、それまでの努力が否定され、
あるいは、もう一度「困難」に立ち向かうことを要求される、
ということは、なんとも理不尽だ。
努力したこと自体に違いなどありはしない。
いや、むしろ、失敗した人間のほうが、さらに真剣な努力をし、
よりつよい情熱を持っていることさえある。
それをなぜ、もう一度「本物」であるか否か試されなければならないのか。
試すも何も、本気だから、本物の決意を持っていたから、悔しがっているのではないか。
退けられることで、意図しない選択を強いられる。
自分の意図しない選択肢のなかで、
志を抱きながら生きていくことは困難をともなうものだ。
現実の誘惑に負けないように忍耐と努力が要求されることは間違いない。
しかし、それと決意熱意が本物であるか、強いものであるかは関係ないことだと思う。
困難に立ち向かおうとした、それだけで決意熱意は相当に強く、本物に違いないはずだ。
また、そんなことはわかった上で挑戦したのだろう、と人はいう。
確かにわかっていた。
しかし、将来を夢見て、困難に立ち向かうとき、
失敗したときのことを冷静に分析し、それを受け入れて判断することなど可能だろうか。
努力が本気であればるほど、失敗したときの落胆は大きくなる。
それを冷静冷徹に判断しなければならないとすれば、チャレンジなんておよそ不可能だ。
世の中は映画ではないのである。
命を懸けるなどと言って、本当に死んでもかまわないとまで思いつめなければ、
挑戦してはならないというのは、チャレンジを否定することに他ならないではないか。
夢をかなえる方法は、多様にあって、問われるのは、それをいかに選択するかだと思う。
ぼくに与えられた道においても、ぼくの理想に近づくことはできるだろう。
あっちじゃなきゃだめだ、こっちはいやだ、などというのは、なんとも幼稚だと思う。
まったく幼稚だと思うのだ。与えらた道で結果を出してから、ものを言え、と。
それに、
ぼくが、ゼミや仲間内で叫んでいたことは、結局うそだったのか、と思う。
ぼくのもっている感情は、忌み嫌っていた感情、そのものではないか、と。
だけど、タイミングを逃してしまったという事態に、悔しさを抑えきれない。
いまの世の中を見ていて、これまでになく舞台は整えられているように思う。
疑問や不満を感じることさえなかった世界に対して、
人々が少しだけ不自然さを感じはじめているように思う。
このタイミングを生かさない方法はない。
たしかに、世の中は閉塞感を増している。
しかし、そんな中にも、それだからこそ、きっかけに満ちている。
やるならいまだ、いまならできる、そんな気がする。
逃したから、大きく見えるのかもしれない。
でも、この時代に生きながら、
ちょっとした変化でも大きく感じられるところにいながら、
舞台に上がれないことが、悔しくてならない。
ただ、
ここで愚痴をいっていても始まらない。
とりあえず、前を向いて歩かなければならない。
いつかやってくるチャンス。それを逃さないような準備をしなければならない。
すこしだけ、前向きに考えてみる。
友人がくれた言葉。
「人生恨むなかれ 人知るなきを 幽谷深山 華自ずから紅なり」
与えられた境遇を受け入れ、精一杯生きるということ。
メールをくれた友人自身も、いろいろと苦労をしているけれど、
いまは幸せな家庭をもっている。
そんな友人からのメッセージに、勇気付けられた。
ぼくに与えられた境遇とは何なのか。
それは、「結果」を得られなかったということではないと思いたい。
これまでにさまざまな出会いを通して、興味関心を抱き、なにかやろうとおもったこと。
できるのではないか、と思ったこと。
その裏づけとして、努力をしてきたこと。
これらの経験が、ぼくの「境遇」だ。
これをこのまま無にしてしまうわけにはいかない。
「自ずから紅なり」というけれど、
誰の目にもとまることなく、深山で朽ち果ててしまっては、やっぱり意味がないと思う。
ひとまず、社会に出て、新しいチャンスを待つ、
次なるチャレンジのために努力をするというのも、悪いことではない…
ぼくは、ひとまず、人と違うことを言うことで、自分の価値を見つけようとしていた。
今あるものをそのまま受け取れ、というのは、僕にはできなかったということでもあるし、
ひとまず疑うことで、考えるきっかけにしていたということでもある。
こんな態度に対して、「突拍子もないことで目立とうとする未熟な人間だ」と言う人もいる。
これは、一面において、受け入れざるを得ない批判である。
それは、発言の裏づけがないこと、考えが浅いということ、
何かを言っても、それは、結局だれかの受け売りでしかないこと。
現実や通説に対して、異論を唱える論説をさがし、そのなかから心地よいものを選び取って、
自分の立場としていた。整合性を欠いたり、大雑把な議論だったり、欠陥があった。
これを克服しなければならない。
そのためには、実践が必要だ。象牙の塔のなかだけでなく、
社会で発言してこそ、整ったものになるのではないだろうか。
だから、社会に出る。
一方で、社会にでることは、恐ろしいことだと思う。
それは、否応なしに、一定の理屈に従わなければならないということだからだ。
高い理想を持ちながら、それをひとまず棚上げして、社会に出た友人がたくさんいる。
そして、彼らは、その理想を成し遂げてはいない。
ぼくが、ひとまず就職することをと考えていると告げたとき、
友人のひとりはやめておけ、といった。
一度組織に属してしまうと、組織の都合で動かなければならなくなる、
だから、バイトでも何でもして、つないだほうがいい、と。
それは、そのとおりなのだろう。
だけど、それでは最終的に、行き詰まる。
生きていくためには、お金が必要で、それを得るためには、働かなければならない。
いやでも、なんでも、それしかない。
いつまでも親のすねをかじって生きることなんて、できはしない。
来年の「チャンス」にかけてみたところで、たいした率は期待できない。
ぼくの持っている駒は限られている。
ひとまず得ることができた席を手放すという選択肢は、ない。
働くうちに、新しい道がみつかるかもしれないよ、という人もいる。
やってみたら、案外面白いかもしれないしね、と。
それはそうだろう。間違いなくそのとおりだ。面白くないはずがない。
だけど、それに満足してしまってはいけないと思う。
満足しては、先に進めない。
いつかは、と思ってもいけない。
残された時間は限られている。
その中で、何を成し遂げられるのか。
これまで何もできなかった人物が、これから何ができるというのか。
いつか、何かを、とかでは何もできない。
ようは、ぼくは、社会を知らない。
だから、迷うし、うまく考えられない。
こういう形で社会に出ることは、不本意であるけれど、やむをえない。
だけど、ぼくが考えてきたこととか、持っている理想とか、やりたいこととかを捨ててはならない。